序章:入社前
研修
「コラ! 爪が汚い! 声はもっと大きくシャキシャキと! 相手の目を見て話す!」
「は、はい。すいません!」
いつの間にか恒例になった勝野と加藤のやりとりである。
あれから3ヶ月、勝野の元へ通って指導を受けている事といえば…身だしなみ、姿勢、しゃべり方etc…まるで軍隊の行進指導のような指導であった。
後に何故にこのような事を?と勝野に尋ねた答えが「暇つぶし」との事だったが、この指導があったからこそ、後に生き残れたと思うようになり、感謝する事になるのはまだまだ先の話である。
「──じゃ、今日はここまで」
「あ、ありがとうございました」
「コラ! どもるな!!」
「すいません!」
「で、来週から支社でいよいよ本当の研修がはじまる訳だが、他の研修生とは一切しゃべるな、いいな!」
「え? どういう事ですか?」
「研修では間違いなくお前1人だけ男で、他は皆女性だ。男性と女性じゃ全くやっていく事も心構えも違う訳だから、変に影響を受けない為だ、分かったか!」
これが、研修中に言い渡された決まりだった。
支社研修
支社研修。
生命保険販売を希望している人が、いわゆる一般的な生命保険の基礎の基礎の研修を1ヶ月近く受ける事となる。午前中3時間、午後2時間程の授業であり、まともに研修に出ていれさえすれば誰でも間違いなく一般課程という生命保険販売の資格を取る事が出来るであろう。
約1ヶ月の間、学校の授業のように研修を受ける訳なので、暫くすると皆顔見知りにでもなるのか、和気あいあいとした空気になる。が、1人だけ思いっきり浮いている存在がいた。加藤である。
研修期間半ば頃、加藤は研修に出た日数──いや、時間はわずか3時間程度しかなかった。
「──であるからして……こうなるんですね」
いつものように授業が進んでいる最中、バンッとドアが開く。今では誰も驚かない、恒例の風景である。
「おい、加藤。今から現場いくぞ!」
「は、はい」
そう、勝野がほぼ毎日のように研修中やってきては加藤を引っぱりだしていたのである。研修なんかクソくらい、生の現場を見るのが一番の研修だ!という理由にて。普通に考えればかなり非常識にも思えるだろうが、加藤が男性である点、そして勝野自体が支社にもある程度名の通っているやり手である点より、誰も文句をいわなかった。
研修中は誰ともしゃべらない。
勝野の決め事は、勝野の手によって守られていた。 事実、加藤は誰1人研修中の知り合いは出来なかった。
勝野が現場という場所は──いわゆる勝野の既契約者回りであった。どこぞかの店の店員、食事で働いている人、勝野の元会社etc…この活動を見て結果からいえば将来的に全くといっていい程加藤の参考にはならなかったのだが、当時の加藤は「これが生命保険の仕事なんだ」と感心しながら見ていた。
なんやかんやで順調に(?)研修が終わり、試験が終了。当然のごとく合格し、翌日から営業所での研修がはじまる。
「さ~て、明日からお前はお客さんじゃなくなるな。これから本気で指導していくから、覚悟しておけ!」
「え? ど、どういう事ですか?」
「今日まで、試験受けて合格するまではまだ営業所にとってはお客さんなんだよ。入社しないかもしれないだろ? ただ、入ってしまえばもう職員になる訳だ。数字を取らせないと営業所の成績にならないからな。だからこれからお前に容赦しないからな!」
まるで冗談のような話であるが、これは事実である。実際、翌日からの勝野の指導(?)は激しさが増し、いつしか加藤の中にいつのまにか次のような常識が身体に埋め込まれていた。
- 9時まで出社は一般人。男性新人は朝8時までに来て皆のお茶汲みをする。
- 基本的に先輩の命令は絶対。クロのものでもシロになる。
- 口答えは許されない。しようものなら鉄拳が飛んで来る。
- お前(加藤)はクズだ。クズだから人の数倍やらなくてはダメ。
スパルタ。
アメリカならば優に裁判沙汰になっても不思議ではない激しい指導の元、加藤の研修…いや洗脳とでもいうべき指導は完了した。
ちなみに、ここまでで加藤の生命保険に対する知識は限り無くゼロ。研修らしい研修は受けておらず、心構えのみを教わっていた様なものなので。
次章より、加藤の営業人生の幕が開かれる。
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